「すべてのものは生きている、貝塚はゴミ捨て場ではない。」—7,000〜5、500年前の縄文時代初期の噴火湾沿岸には、高地と低地の水場に貝塚があった。人間の骨格もここで発見され、貝塚がすべての生あるものの“送り場”であったことを示す。史跡北黄金貝塚は、環境の変化と人類の適応を当時の墓制とともに教えてくれる。
〒059-0272 北海道伊達市北黄金町75
TEL:0142-24-2122(北黄金貝塚情報センター)
袈裟などの衣類を運ぶ箱。仙人が金・銀の宮殿に住むと、古代中国で言われた東の海に現れる島、蓬莱山を長寿の亀や鶴と描く。 蓋(フタ)のような形のため、別の箱の身と組み合わされた。 しかし側面の松喰鶴(マツクイヅル)の向きから、もともとは単独で、衣服を入れる広蓋(ヒロブタ)や髪道具など一時入れる乱箱(ミダレバコ)のように衣類等を整理・運ぶためのものと推定される。 金粉を蒔いた後に、絵を研ぎ出す技法、研出蒔絵を、疎と密に使い分け、表現する幻想性。平安時代後期の蒔絵の名品。
6~8世紀の小湊フワガネク遺跡群から、本土では生息せず、螺鈿工芸に使われるヤコウガイの貝殻、ヤコウガイ製のスプーンや容器、イモガイ製の装飾品など貝製品が多く出土。7世紀以降の歴史書に海見、菴美などと書かれ朝廷に宝物を献上したと記される。隣接地域からはヤコウガイと取引されたと思われる長崎県産石鍋も出土している。
〒894-0036 鹿児島県奄美市名瀬長浜町517
TEL:0997-54-1210
昭和37年柳田、最後の著作。語ろうとしたのは、琉球諸島に漂着した者たちが稲と貝に価値を感じ、それを伝承し定着させていったのではないかということ。実証しにくい日本人の稲作による生活と信仰の原型のようなものこそ、おそらくは柳田から継承すべき思想である。
柳田国男 岩波文庫
Tags : 北海道史跡史跡北黄金貝塚
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