江戸時代初期に「寛永の三筆」として知られた松花堂昭乗は石清水八幡宮の社僧。二条城で後水尾天皇と将軍徳川家光との対面式に際しては、公家と武家の仲介役として奔走した。当園には、男山にあった遺構「松花堂」と泉坊書院が移築され、夏には黄色に輝き、節が緑色になる、荘厳なる金明孟宗竹(きんめいもうそうちく)が植えられる。
〒614-8077 京都府八幡市八幡女郎花43
TEL:075-981-0010
豊臣秀吉の小田原攻めに従った利休(1522-1591)が、伊豆・韮山(ニラヤマ)の竹を取り寄せ、陣中の茶会用に作る。子・小庵(ショウアン1546-1614)の土産とする。 高さ33.4cm、太さ10.6cm、真直ぐな竹。前面に花を生きる窓に、一重切れ込む簡素な花入。大津・園城寺「弁慶の引き摺り鐘」のように、表面に、ヒワレ(干割れ)がまたある。後に小庵が、竹の割れをかけて銘とする。
当御所は寛永4(1627)年、八条宮智仁親王の甥、後水尾上皇の為、退位後に内裏から退去する御所として造営された。その庭園は綺麗さびの小堀遠州による作庭である。回遊式庭園の二つの池の間には藤棚の美しい八ツ橋がかかる。まさに近世・慶長の美の結実がそこにある。常に石組みなどの締めを置く、華麗なる美の展覧。
〒602-8611 京都市上京区京都御苑3
TEL:075-211-1211(代)(宮内庁京都事務所)
蒹葭堂は元文元(1737)年に大阪北堀江の酒造りと仕舞多屋を兼ねた家の生まれ。画人、博物学者であり、考証家でネットワーカー、文筆家で蔵書家で、文人墨客とサロン活動する。蒹葭堂は、産業と文化を切り離さなかった。産物と学問と芸術を分断しなかったのだ。
中村真一郎 新潮社
Tags : 京都府八幡市立松花堂庭園石清水八幡宮美術館
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