606年、推古天皇に勝鬘経を講義し聖徳太子が賜った播磨の水田が、後の法隆寺荘園鵤荘。太子は四方の境界に傍示石を埋め伽藍を造り、遣唐使も辿った中国黄河流域の交通要所、斑鳩店鎮に由来し、斑鳩寺と名付ける。本堂 「聖徳殿」には、植髪の御尊影、太子等身大で衣を着る本尊太子像。三重塔の相輪は、バランスが見事。
〒671-1561 兵庫県揖保郡太子町鵤709
TEL:0792-76-0022
痩身で、装身具も簡素な足を組み瞑想する菩薩像。 666年朝鮮半島で百済が滅ぶ。多数の王朝の民が日本に亡命。 朝廷の役人が、亡くなった半島出身の妻のために願いを込めた仏像。 —ハンカする台座の枠に「高屋大夫が亡き韓夫人のために」と刻まれ、仏像の痩身や腰から垂れる帯飾りで、朝鮮三国時代の仏像との関連も濃い。
聖徳太子創建の当寺金堂壁画は7世紀末頃描かれ、インド・アジャンター石窟群や敦煌莫高窟の壁画と共にアジア古代仏教絵画の代表とされた。焼失後再現された6号壁の三尊(阿弥陀・観音・ 勢至)を中心に25体の菩薩像を表す阿弥陀浄土は白眉。壁画の図様に国宝刺繍釈迦如来説法図(奈良博蔵)との高い親近性が見られる。
〒636-0116 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
TEL:0745-75-2555
明治16(1883)年、井上馨が企画し、ジョサイア・コンドルが設計し現在の東京・日比谷帝国ホテルの南にできた社交場、鹿鳴館。本書が語る鹿鳴館の系譜とは、古代の聖徳太子による若草伽藍であり、現代の吉田茂によるサンフランシスコ講和条約とその後のパーティである。その翻訳文化に日本文化の歴史がつづくと語る。
磯田光一 講談社文芸文庫
Tags : 兵庫県斑鳩寺法隆寺
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