平安時代、平家の大軍を破って上洛し征夷大将軍を任ぜられる朝日将軍、木曽義仲。後白河法皇の策略で鎌倉軍に敗れ、短くも壮絶な生涯。当寺には義仲が巴御前に託した遺髪と、観音堂脇に義仲が植えた2代目の時雨桜が残る。そして本堂前には重森三玲作庭の雲海の美を表す枯山水庭園「看雲庭」が御嶽山の山並みと雲を望む。
〒397-0001 長野県木曽郡木曽町福島5659
TEL:0264-22-2428
朝廷儀式に正装高位の公家が天皇から許可を得て帯びた剣。 朝廷儀式のための飾りの剣。高い位の貴族が、天皇の許可を受けて帯びた。 鮫皮(サメカワ)で包んだ柄(エ)、ハカリの分銅形の鐔(ツバ)、鞘(サヤ)や柄に長い金物を付ける。金物は銀メッキの地板に、金メッキで繊細な葉や枝をもつ菊の文様、を高彫や透彫で表す。 鞘口に近い5か所は、上部に山形金物を付け、鞘の金物の間は梨の表面のように仕上げた、梨地に尾長鳥(オナガドリ)を螺鈿で表す。 ほっそりとわずかに反る、和様の好み。
当天守閣は1612(慶長17)年、徳川家康が、最高技術を要する天守石垣には熊本城「武者返し」の加藤清正を、作事奉行に京都・仙洞御所の小堀遠州を使い完成。筏を組み木曽山から川下り、桑名、名古屋へと檜を運び、従来にない層塔型の安定感の中に細やかな意匠を凝らす。その遠州風天守閣上には火除に水を呼ぶとされる鯱を飾る。
〒460-0031 愛知県名古屋市中区本丸1-1
TEL:052-231-1700
幕府は「権力の概念化」と「上下定分の理」を求めた。ここに思想として神儒一体のイデオロギーが出現し、次に中国の朱子学を日本の朱子学にするためのかなり異様な方法が提案され、またそれを、日本の神々の垂迹と合致していなければならないという方針を貫いた。
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Tags : 興禅寺鎌倉長野県
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