北九州市や直方市と接する当地にある標高901mの福智山は、花崗岩が積み上がる古代地層で形成され、北九州小倉側は緩やかな斜面で、当町側は急傾斜。そこに福智川の源、上野峡がある。中心は白糸の滝で、奇岩溢れる3km程の渓谷。近世、茶陶世界を風靡する上野(あがの)焼は、福智山のアカマツでかつて焼結され、気風はこの山麓や渓谷を源とする。
〒822-1102 福岡県田川郡福智町上野
TEL:0947-22-0555 (福智町役場まちづくり総合政策課)
豊臣秀吉の小田原攻めに従った利休(1522-1591)が、伊豆・韮山(ニラヤマ)の竹を取り寄せ、陣中の茶会用に作る。子・小庵(ショウアン1546-1614)の土産とする。 高さ33.4cm、太さ10.6cm、真直ぐな竹。前面に花を生きる窓に、一重切れ込む簡素な花入。大津・園城寺「弁慶の引き摺り鐘」のように、表面に、ヒワレ(干割れ)がまたある。後に小庵が、竹の割れをかけて銘とする。
細川幽斎は、信長から勝竜寺城の城主を任じられ、子の忠興はこの地で明智光秀の娘玉と結婚式を挙げる。勝竜寺城近くの山崎で天下分け目の秀吉と光秀の戦い。光秀の援軍要請を断った幽斎は剃髪し、家督を忠興に譲り、勝竜寺城を出る。玉は離縁幽閉され改宗。城跡地は、今史跡調査後資料展示室、櫓や庭園を備えた当園となる。
〒617-0836 京都府長岡京市勝竜寺13-1
TEL:075-951-4500(長岡京市観光協会)
本書は秀吉の猛然たる執念の起源を捉え、利休の末子に紀三郎を創造的に設定し、秀吉の愛憎半ばの癇気と情気をぶつけられ、その本質を見通すようになったかもしれない利休を対比的に描く。利休が弟子の山上宗二の無惨な死をきっかけに、秀吉への抵抗に追いこまれていく様子を日本文学最高の格調で、77〜78歳の著者が描く。
野上弥生子 中央公論社
Tags : 上野峡福岡県
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